ペルシャ絨毯の歴史

羊毛とシルクと綿花

一万年前ほど昔から、イラン高原の遊牧民は厳しい冬の 寒さ、夏の暑さ、昼夜の激しい温度差といった自然環境に生活していました。羊は衣食住に欠かせないものであり、厳しい環境の中、品種改造もされず適応してきました。それは絨毯にとって最高品質の羊毛となりました。固く太い羊毛は大変復元力に優れ、保温性、調湿性も優れています。毛には油分が含まれているので踏めば踏む程いっそう艶やかになります。

イラン高原に住む羊の毛の繊維はオーストラリアやニュージーランドなどの羊と比較して毛が太く、踏んだり押し付けたりしても回復が早く耐久性が高いので、絨毯の素材として最適であるとされています。

 

イランでは古くから 絹糸も生産されており、伝統的に絨毯製作には養蚕に適した気候であるカスピ海南岸地方の最上級のシルクが使われていました。シルクは滑らかな肌触り、独特の光沢 、大変艶やかな高級素材です。宮廷用の絨毯としても用いられました。シルク絨毯は打ち込みが良く、軽くてしなやかなのが特徴です。

   

またオアシスの至る所で綿花が取れ、糸が紡がれ、絨毯の縦糸や横糸に使われ絨毯の基礎を作る糸として、なくてはならないものです。

 

ペルシャ絨毯の起源

ペルシャ絨毯の起源は羊を放牧していた遊牧民の生活の中にあります。太古は動物の皮を敷物や衣服としていましたが、羊毛を刈り、フェルト状の敷物がつくられるようになり、糸を紡ぐことができるようになると平織りが可能となりました。そして、徐々にパイル織の絨毯も織られるようになりました。
 
昼は熱い陽射しが降り注ぎ、夜は寒さ厳しい自然の中で移動を続ける暮らしに密着した生活用具として織られてきました。やがて一部の人々は街に定住するようになり大きな絨毯を織るようになりました。今でも遊牧民はあまり大きなものを織ることはありません。

 

絨毯の発展

東西交流の交易路シルクロード。この各要所に絨毯の産地があり、 絨毯はシルクロードを経て東は中国、パキスタンへ、西はペルシャ、トルコへと流通する事ができたのでした。シルクロードは異文化、技術、人、宗教などもたらし、絨毯に飛躍的な発展をもたらしました。

 

当初は絨毯を織るための下絵はなくほとんどが幾何学文様であり、口伝えによるもので、母から娘へと紋様は伝承されてきました。15世紀頃より都市に定着した人々が下絵を用い、本格的な曲線美の絨毯を発達させました。

またイスラム教の発展は絨毯の需要を高めました。一日に5回も膝まづいて祈祷を行う生活スタイルは祈祷用小型絨毯が普及し、モスクなどでは大量の絨毯が使われるようになりました。こうした需要の高まりによりペルシャ絨毯は各地で生産されるようになり、技術の向上、機械織りの発展、宗教的なデザインだけでなく豪華な装飾の絨毯が作られるようになりました。

サファヴィー朝ペルシャの時代16〜18世紀初頭の200年がペルシャ絨毯3000年の歴史のなかで最も重要な時期でした。2代目タフマースブ1世と5代目シャーアッバース1世は優れたデザイナーと織り手を都市に集め、宮廷工房が設立、優れた材料が集められ数多くの最高品質の芸術的な絨毯が製作されました。大型織機で繊細な紋様の絨毯が製作され、礼拝用絨毯、幾何学紋、部族紋、具象紋、など、これらはペルシャの最も高価な製品として、他国の王室などへの贈り物として使われました。19世紀後半より、タブリーズを中心にケルマン、カシャーンなど地方都市でも産地との特徴を持った質の高い絨毯が織られています。

外国への本格的輸出は19世紀半ばから始まり、ガジャール朝ナーセロッディーン・シャーの時代にはヨーロッパに大量の絨毯が輸出されています。最高級な商品として外貨獲得のため輸出され、ヨーロッパ人の好みの需要に応えたデザインが作られました。

 

19世紀の近代資本主義・商業主義の台頭により量産を重視する傾向になり、簡単に速く、鮮やかな色を実現する化学染料が普及し、手間と費用のかかる伝統的草木染が少なくなりました。しかし20世紀後期この傾向を憂い、伝統的染色技法と模様の復活、発展を目指す工房が現れてきました。

 

ペルシャ絨毯と日本

日本にはシルクロードを経て中国を経由し、16世紀安土桃山時代に工芸品のひとつとして渡ってきたとされます。派手好みの豊臣秀吉がペルシャ絨毯に関心を持ち、絨毯で陣羽織を作らせたのも有名な話で、今も京都の高台寺に保存されています。正確には金糸銀糸を用いたキリム(綴れ織)のようです。絨毯が本格的に日本に入ってきたのは17世紀以降、異国の文物として豪商が好んで買い求められ、京都の祇園祭では鉾の懸装品として現在まで使われています。